カント(1) 『純粋理性批判』
Imannuel Kant カント (1724〜1804)
Profile (範囲外)
・生まれ:ケーニヒスベルグ(プロイセン)
馬具商人の息子として生まれる
・16歳〜22歳:大学に行く。哲学専攻
ライプニッツの哲学 『大陸合理論』を学ぶ
(↑デカルト⇒スピノザ⇒ライプニッツ)
又、ニュートン物理学にも関心を示す。
・36歳〜46歳:私講師をつとめる
↑大学からの給料が出ず、集まった生徒からの聴講料をとって大学で授業する。
・46歳:正教授になる
カントの哲学は、彼の主著『純粋理性批判』の上に成り立っていると言えるかもしれない。
・『大陸合理論』
・ニュートン物理学の影響:カントラプラス星雲説
←太陽系の起源に関する仮説をラプラスと共に提唱
・『英経験論』
特に〔ヒューム〕の影響
⇒ショック
合理論から、全てを理性の働きによって認識できると考えていたカント
⇒経験論に出会い、〔独断のまどろみ〕から覚める。
・〔ルソー〕の影響:『学問芸術論』
あるがままの人間の中の素朴な人間らしさを評価
⇒人間を尊敬する事の良さを見つける。
・46歳〜57歳:正教授になってから沈黙を続ける。
・57歳:『純粋理性批判』
◎『大陸合理論』と『英経験論』
大陸合理論 |
英経験論 |
独断論 ライプニッツetc. 理性能力の過大評価 何でも分かる! |
懐疑論 ヒュームetc. 理性能力の過小評価 何にも分からない… |
Hume ヒューム
:英経験論者。全ての知識を生の体験に求めた。
=impression
内 刻印
言葉はあってもimpressionに基づかなければ、それは有り得ない。
impressionに基づかない知識があったらおかしい。
cf. ケンタウロスはimpressionに基づかない為、有り得ない。
⇒〔懐疑論〕に到達していく。
全ての事について疑わしいと考える。
〔因果律〕の否定
necessary connection
必然的な結びつき
否定
現象Aと現象Bを結びつける必然的結びつきは経験できないし、証明もできない。
太陽のせいで必ずしも部屋が暑くなるわけではない。
しかし、人間は、AとBの現象が繰り返し続いて行われる内に、絶対A→Bが起こると考えてしまう。
oftenで起こる事をalwaysに起こると、カントの言葉を借りれば、
人間はよく『信仰(belief)』してしまう。そこに確かな証拠があるわけではないのに。
しばしば often
↓
必ず always と信じる。
ヒュームは人間にとって確実な知識など存在しない、自然科学すら疑わしいものだとしている。
この因果律の否定はカントに影響を与えた。
◎自然科学と人間の自由
カントの時代、
・〔科学万能〕の風潮
自然科学が急激に発展していった時代であり、
自然科学は未来すら予測できるのかという驚きを人々は受けた。
例:ニュートン物理学⇒運動を予測
⇒科学は万能であるのだから、科学で解明されないものは、怪しいと人々は考えるようになる。
⇒しかし、〔人間の自由〕に関して、自然科学は証明する事ができない。
・〔ラ・メトリ〕 『人間機械論』
無神論者かつ唯物論者。人間すらも機械と見ようとした。
デカルトと異なり、精神現象も物質から考えようとした。
←カント『実践理性批判』他倫理関係書
にて、この二つの問題に対する事を述べている。
『純粋理性批判』
この著書はカントの十数年間の苦心が詰め込んである。あまりに難解であった為、
皆、理解できず、カント自ら解説書を書いた。
人間は何を知る事が出来るのか?
人間…モノを知る知り方がある(2通り)
・〔空間〕と〔時間〕(直観の形式)
…人は空間、時間の中で現れるものを初めて知る事ができる。
・〔カテゴリー〕(分類の仕方)
…性質・量・関係etc.において整理していく。
⇒〔経験〕に結びついていく。
経験できる世界…知る事ができる
モノ自体は知る事はできない。
赤いレンズの入ったサングラスをして生きている人は、白というモノを知覚する事はできない為、
白とはどういうものかという事を議論する権利はない。
だが、赤いサングラス越しで見て、白いモノも赤いモノとして認識する事はできる。
我々が知る事のできる世界というものも、それと同じである。
一つの枠組みを通してモノを知る事はできても、その枠組みを超えた所にあるモノの知識を
知る事はできない。だからモノ自体を知る事はできないのである。
理性:推論により究極的な物を知ろうとする。
哲学の三大問題
〔世界(全体)〕(宇宙全体)
〔霊魂〕:全ての経験に基づくこの私は一体どうなってしまうのか?自分の死についてetc.
〔神〕:私を創造し、全ての世界を創った存在とは?
人間の理性は、ある種の認識において特殊な運命を担っている、即ち理性が避ける事もできず、
さりとてまた答える事もできないような問題に悩まされるという運命である。
避ける事ができないというのは、
これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、
また答える事ができないというのは、
かかる問題が人間理性の一切の能力を超えているからである。
〜『純粋理性批判』第一版 序文 冒頭〜
人間の理性の運命
〔避ける事も答える事もできない問い〕
人間の理性は自ずと、こういった究極的な物について、考えてしまう為、避ける事はできない。
しかし、このようなものは経験の範囲を超えているし、物自体を知る事はできない。
考える事ができる = 知る事ができる
究極的な物の存在を科学的に論ずる事はできない。
だから、哲学のように、究極的なものを考えようとする学問は、
科学的な厳密性においては、成り立つ事はできない、という非常にネガティブな立場。
私は信仰に場を与える為に
知識を取り除かねばならなかった。
カントの時代は自然科学と人間の生き方が混合されていて、自然科学的に何でも解明されていく内に、
自然科学が絶対的であり、それで証明できないものは意味がないという風潮になっていった。
だが、カントは経験を超えたものに関しては、否定的にも肯定的にも取れないとした。
自然科学的な知識(経験できる知識)が絶対的、即ち万能であり、経験を超えた事、
つまり、科学で証明できない事は、妄想に過ぎないとしてしまうと、人間の自由はなくなってしまう。
科学は経験で証明できるものなのだから、経験を超えたものについて、論議する権利はないだろう。
自然科学は万能ではない。科学的に証明できない事もある。
究極(絶対)的な物は、むしろ実践において存在するものであり、人間の生き方の問題である。
絶対(究極)
科学の問題にはならない。だが、実践において絶対は存在する。
例:踏み切りの中で子供が倒れている
⇒助けなければ!と
絶対的に思う
実践において、実際生きている場面での絶対は存在する。
どういう根拠があるかは科学では証明できないし、
何の根拠も無いという事さえ科学には言う権利は無い。
しかし、事実としてそれは存在するのだからと、
それを素直に考えて、人間の生き方に対して説いたカントの書が
『実践理性批判』である。